昭和34年2月27日、東京にはまっ白に雪が積もっておりました。臨月を迎えたY子は、昨夜、突然産気づき、 慌ててここ足立区井田病院に入院したものの、一夜明けるとなぜか陣痛は嘘のようにおさまってしまったのでした。
「今日は生まれそうもありませんわね」
 付き添いの看護婦にいわれ、病室に詰めていた夫のM義も帰り支度を始めました。 「私、気分転換にちょっと散歩してくるわ」  そういい残し、Y子は自分の足で中庭に出ました。大きく深呼吸して病室の淀んだ空気を肺から追い出し、ゆっくりと歩き始めると、足元の雪は、Y子の歩調に合わせてサクッ、サクッと楽し気な音をたてました。まるでこれから生まれて来る命を祝福するかの様に。  病室に戻ると同時に陣痛がやって来ました。分娩室に運ばれたY子は、ものの数十分で3800gの元気な男の子を出産しました。担当医も間に合わないほどの安産でした。 この子は彰と名付けられ、3才上の兄と共にすくすくと成長しました。 ビービー泣くので、ビーコというあだ名が付きました。  当時、神保家は千往に往んでおりましたが、道路計画で立ち退きとなり、西武池袋線東長崎駅にほど近い家に引っ越す事となりました。門構えは立派なものの、建ってから既に20数年たつ古い家でした。すぐ前に空き地があり、そこが彰たちの遊び場になりました。 彰と同い年のクニヒコ君、兄と同い年のケンちゃん、いつも4人で暗くなるまで遊んでおりました。  彰はやがて近所の幼稚園に通い始めましたが、最初の数ヶ月登園を嫌がり、Y子を困らせました。なかなか頑固な子供なのでした。園から帰る時、みんな両手でチューリップを作り、その中に先生がカワイ肝油ドロップを1つずつ入れてくれました。彰は、この肝油ドロップが大好きなのでした。1つしか食べられないのが残念でした。 いつか大きくなったら、腹いっぱい肝油ドロップを食べて見たいと思うのでありました。 また、当時誰もがそうだった様に、 鉄腕アトムと鉄人28号に夢中でした。でも、就寝時刻が7時半だったので、鉄人のテレビ放映を見る事が出来ないのでした。はやく大きくなって、思う存分見てみたいと思うのでありました。  年長に入る頃よりピアノを習い始めました。父のM義は、学生の頃より進駐軍のキャンプでベースをひいて、当時のサラリーマンの初任給を上回るバイト代を稼いでおりました。卒業後、音楽の道には進まなかったものの、自分の息子達が小さいうちからしっかりした音楽教育を受けるのはよい事だと考えておりました。週一回、キクチ先生という若くて美しいピアノ教師がやって来て、兄と彰を教えました。兄はメキメキ上達しましたが、彰は、とに角このピアノレッスンが嫌で嫌でたまらないのでした。なんとかしてさぼろうと考え、レッスンの日は家の前の空き地ではなく、少し離れた場所で遊び、暗くなるまで戻って来ませんでした。キクチ先生は、いく度となく待ちぼうけを食わされました。それでも優しく、辛抱強く彰を導こうとしましたが、頑固者の彰は固く心を閉ざし、ピアノの前で拳固を握って決して手を開こうとしませんでした。 とうとうキクチ先生もさじを投げました。  小学校に入る頃、彰の心を捕えたものはプラモデルでした。鉄人、アトム、サンダーバード、サブマリン707等、空想科学キャラを中心に、小遣いの全てをつぎ込む熱中ぶりでした。一度作り始めると、Y子が食事に呼んでもなかなか出て来ないのでした。  程なくGS(グループサウンズ)の時代がやって来ました。彰は夢中になりました。ブルーコメッツのジャッキー吉川が、ここぞという場面でダガダガドゴドゴジャーンとやるのにすっかりしびれてしまい、早速、茶碗と皿を並べ、お箸をスティックがわりに兄と2人でカチャカチャキキココチーンとやり始めました。Y子の頭痛の種がまた一つふえました。 食事の前は大さわぎでした。Y子がいくらやめなさいといっても聞かないのでした。 こまったY子は、M義に相談しました。次の日、会社の帰りにM義は楽器屋さんに寄り、スティックを2セットと練習台を買ってきました。兄と彰は大よろこびでした。かわりばんこにパタパタパタパタやっていましたが、太鼓が1つしかないので、ここ一つ盛り上がらないのでした。 三日もすると飽きてしまいました。やがてスティックと練習台は、押し入れの奥にしまわれる事となりました。

 彰が4年生になる頃、また引っ越し話が持ち上がりました。 特にこれといった理由はなかったのですが、祖父のT平が方位にこだわる人間で、以前に住んでいた千住から鬼門の方角にあたるこの家への転居に、もともと乗り気ではなかったのでした。実際、T平の妻(彰の祖母)F美が、廊下で転んで骨折するなど、不吉な事も重なりました。彰はそんな事とは知らず、ノー天気に暮らしておりましたが、なんとなく暗い感じのするこの家に、愛着を感じる事は出来ませんでした。夜、廊下の突き当たりにある便所に行くのはいやでした。水洗でしたが、今にも便器から手が出て来る様な気がして、用を足すのもそこそこに飛び出して来るのでした。おかげで何度もおねしょをしました。  ある夜、彰はふと目が覚めてしまい、べッドと壁の間のすき間に腕を入れてブラブラさせておりました。すると、いきなり何かがその腕をグイとつかんだのです。 彰の体から血の気が引きました。すぐ横で寝ているY子に助けを求めようとしても、のどはカラカラに渇き、声が出ません。生まれて初めての本物の恐怖でした。  そんな事もあり、この降って涌いた様な引っ越し話に彰は喜びました。引っ越し先は決まっていませんでしたが、T平は一刻も早くよい方角に移りたかった様で、とるものもとりあえず、渋谷のマンションに仮り住まいする事となりました。彰はすぐには転校せず、4年生が終わるまでの間、東長崎まで通いました。帰りに、乗り換え駅の池袋のスナックスタンドでアメリカンドックを買って食べるのが、新たな楽しみになりました。  一度大雪が降りました。首都圏のすべての交通が麻痺してしまう程の雪でした。 彰は途方にくれました。家に電話を入れるとT平が出て、Y子が既に東長崎に向かった事を告げました。改札横の喫茶店に入って待っている様にいわれた彰でしたが、なにしろ生まれてこのかた喫茶店に入った事などありません。入口の前を行ったり来たり。なかなか中に入る勇気が出ないのでした。15分ほどそうしていたでしょうか。お店の扉が開き、中からきつい化粧をした女の人が出て来て彰に声をかけました。「ぼうや、どうしたの?寒いから中に入りなさい」こんなに化粧の濃い女性を見たのは生まれて初めてだったので、彰は驚いて口もきけず、肩を押されるままにお店に入りました。石油ストーブがまっ赤に燃え、そこは別世界の暖かさでした。 「ぼうや、何飲む?」 彰は、消え入る様な声でココアを注文し、お店の片すみでまんじりともせずに幸子のやって来るのを待ちました。どのくらいそうしていたでしょうか。夕闇が街をすっぽりと覆う頃、ようやくY子が兄を連れてお店に入って来ました。その姿を見付けた時、彰は心底ほっとしたのでした。店を出る時に看板を見ると、“スナック雪“と書いてありました。この大雪の日にスナック雪だなんて、実にばかげてると彰は子供心に思いました。やっとの思いでタクシーをつかまえて家に戻る途中、わがままな彰は、迎えに来るのが遅いとぶつぶついいました。ココアをちびちびと2杯飲んでもまだ来なかったと文句をいいました。ココア2杯?Y子は、スナック雪のおねえさんが、その代金を取らなかった事に気付きました。この寒い日に、なんと暖かい人もいたものだと思いました。一方、バカな彰は後部座席で、まだなにやらぶつくさといっているのでありました。  ほどなく4年の3学期も終わり、彰は渋谷の小学校に転校しました。東長崎に来る事もなくなりました。このあと彰が、スナック雪のおねえさんに会う事はありませんでした。  渋谷の小学校では、新入り新入りといじめられました。でも、2ケ月もするとすっかり溶け込み、一番のいじめっ子とも、大のなかよしになりました。6年生では学級委員に選ばれました。鼓笛隊の小太鼓のオーディションでは惜しくも落ちたものの、中太鼓を担当する事になりました。暗譜せずに、いいかげんにたたいても、何となくサマになる中太鼓を、彰は結構気に入りました。  運動会でのこと、クラス対抗リレーに出るはずのミウラ君が病欠しました。担任のモリ先生は、どういう訳かピンチランナーに彰を指名しました。彰はもちろん、クラス全員が驚きました。何故なら彰は決して足の速い少年ではなかったからです。

足の速さからいけば、キヨナガ君が出るべきだと抗議しましたが、モリ先生はうす笑いを浮かべながら、「おまえが行ってこい」と繰り返すだけでした。  学年一番の俊足、イイズカ君が作戦を立てました。本来ならば、当然彼がアンカー(最終走者)ですが、あえて3番目に走り、大幅にリードを奪った後、彰にバトンタッチ。なんとか逃げ切るという筋書きでした。クラス対抗リレーは花形種目。観客席はいやがおうでも盛り上がっています。 「パーン!」  スタートの合図が鳴りました。第一走者、第二走者まではほぼ互角の鍔ぜり合いでしたが、第三走者にバトンが渡されると、イイヅカ君が圧倒的なスピードで飛び出しました。あっという間にぐんぐんと差が開きました。大歓声です。イイヅカ君は、コース半周ほどものリードを奪って、彰にバトンを手渡しました。 彰は無我夢中で走りました。走って走って走りました。これはひょっとすると逃げ切れるかもしれないと思った瞬間、各組のアンカーたちが次々に彰を追い抜いて行きました。ゴールした後、彰は、穴があったらすぐにでも入ってしまいたい気分でした。そのまま冬眠して、半年くらい出て来たくありませんでした。イイヅカ君をはじめ、クラスのみんなは優しく彰を慰めてくれましたが、その優しさが、余計、彰をつらい気持ちにさせるのでした。モリ先生は、この結末が分かっていたかの様に、少し離れた所から笑って見ていました。  そのあとも色々な事がありました。クラスの大半は近くの公立中学に進学しましたが、彰は私学を受験したので、この仲間たちとは別れなければなりませんでした。卒業式ではじわっと目が潤みましたが、泣きはしませんでした。  この頃既に、一家は渋谷のマンションから世田谷の一戸建てに引っ越しておりました。Y子が、クリスマスイブにたまたま飛び込みで入った不動産屋で見付けて来た物件で、T平が地図の上に書いた狭い扇形の中に収まり、なおかつ東南の角地という、方位的には申し分のない家でした。半地下は、エレクトーンとピアノが置かれた音楽室になっていました。彰の中学入学祝いに、M義は、ドラムセットを買って来ました。M義がボサノバのパターンを教えると、彰はすぐに覚えて、簡単な伴奏だったら出来る様になりました。レパートリーはだんだん増え、来客時に、ちょっとした演奏会をするまでになりました。 「お宅の息子さん、ドラムなかなか上手いねえ」  などと客人がお世辞をいうと、単純な彰はすぐ有頂天になるのでした。  程なく彰も反抗期を迎え、M義との会話も少なくなり、当然、ドラムからも足が遠のいて行きました。だれも叩き手のいなくなったドラムは、音楽室の片すみで所在なげに埃をかぶり、ゆっくりと錆びて行ったのでありました。  ドラムに飽きると、彰のプラモデル熱にまた火が着きました。今回はもっぱら、飛行機、戦車等のミリタリーものでした。モデルアート、ホビージャパンといった専門誌を月ぎめ購読し、ためたお年玉でピースコンという高価な塗装用エアブラシを買い揃え、学校から戻ってくるなり、裏口の土間に座り込んで組み立てを始めるのでした。知らず知らずに塗装用のシンナーを吸いすぎて、顔色がまっ青になりました。兄から”青むくれ“という、あまり有り難くないあだ名を頂戴しました。Y子は、このまま彰が本当のバカになってしまうのではないかと、本気で心配し始めました。やがて神保家に、プラモデル禁止令が発令されました。  楽しみを断たれた彰が向かった先は、テレビでした。“太陽にほえろ“などの刑事アクション、“3丁目4番地”などのファミリーもの、“木枯らし紋次郎”などの時代劇、脈絡なく夢中になりました。萩原健一扮するマカロニ刑事が死んだ時には本気で涙し、ビリーバンバンの歌う“さよならをするために”を兄のギターでコピーし、紋次郎のくわえる長い楊枝が売っていないからと、出前の寿司屋が持って来る竹の割り箸をカッターで削り、口でくわえては飛ばす練習をしていました。最初は、中村敦夫扮する紋次郎のやる様に、息で吹き飛ばそうとしていましたが、楊枝は30cm先にボトっと落ちるだけでした。ある日、息ではなく、唇をプッと突き出す力で飛ばしてみると、いきなり飛距離が5mに延びました。彰は有頂天になり、得意げに飛ばしまくりました。

こんなことに夢中になっていると、本当のバカになってしまうのではないかとY子は心配しましたが、さすがにテレビを禁上するわけにはいきませんでした。  学校で彰は目立たない生徒でした。入学と同時に入った山岳部は、練習がきつくて一年で辞め、次に、生物愛好会という軟弱なクラブに入って、のらくらと日々を送っているうち、トコロテン式に付属高校ヘと進学して行きました。  テレビ好きは変わらず、寺内貫太郎一家、前略おふくろ様、傷だらけの天使等々、時期によって様々なドラマに入れ込んでおりました。中でも、マカロニ刑事以来ファンになった萩原健一に、すっかりシビレていました。傷だらけの天使のタイトルバックでは、井上尭之バンドのカッコイイテーマ曲に乗って、ショーケンが、まるごとのトマトにかぶりつき、牛乳ビンのフタを口で吸い取って、ペッと吐き捨てるという荒業を披露しておりました。早速、わざわざビン入りの牛乳を買って来た彰は、それをあんぐっと口にくわえ、勢いよく吸うと、フタはパカッとはずれて、彰ののどをふさぎました。危うく窒息しそうになりながら、彰は自分を、つくづくバカだと思いました。  高一の夏に、彰は、四国の宇和島の海水浴場でアルバイトをしました。中学の同級生、A君の家庭教師の実家が経営する海の家で、ジュースを売ったり、ボートを貸したり、カレーを作ったり。働いてお金を稼ぐのって、素晴らしいと思いました。冬休みはNHKで地図に色を塗り、春休みには不動産屋のマッチを配り、高二の夏は、ダスキンのトイレの防臭剤の訪問販売もやりました。この時もA君と一緒でしたが、彰が一日歩きまわって、せいぜい3軒入れるのがやっとなのに、A君は、一日に20軒以上入れて来るのでした。歩合制なので、当然、バイト料には大きな差が出ました。彰は、大人の社会の厳しさを垣間見た様な気がしました。 この頃、彰はギターに興味を持ち始めました。兄が、ジェームス テイラーのベスト盤を持っていて、ファイアーアンドレインや、ユーヴガッタフレンドなどをコピーしていたのに影響を受けたのです。タブ譜の読み方も覚えて、レパートリーも増えましたが、決して上手くはありませんでした。  ある日、クラスメイトのS君が、ブラジル出身のキーボード奏者、デオダートのアルバムを貸してくれました。彰は、このアルバムがいたく気に入り、他のも聴いてみたいと思いました。バイト代は、レコード代として消えて行きました。何事につけ凝り性で、ほどほどという事を知らないのでありました。  デオダートのアルバムは、クリードテイラーというプロデューサーの主催する、CTIレーベルから出されていました。彰は、デオダートの作品を一通り揃えてしまうと、今度はこのCTIから出ている様々なアーティストを、片っぱしから聴き始めました。スタンレータレンタイン、フレディハバート、チェットベイカー、ポールデスモンド、ミルトジャクソン、ヒューバートローズ、ジョージベンソン、などなど。 これらCTIの作品群にたびたびクレジットされているミュージシャンの中に、スティーブガットという名のドラマーがいました。彰は、彼の演奏に、なぜだか妙に引き付けられたのでした。彰が聴いてきたドラマーは、たとえバンドの花形的存在でこそあれ、サウンドの中では、あくまでも脇役でした。ところが、スティーブガットの演奏は、あたかもドラムがリーダーであるかのごとく、圧倒的な包容力でその音楽全体を包み込んでいる様に感じられたのでした。 ドラムって、こういう風にもたたけるんだ。彰の目から、ボトボトボトと鱗が3枚ほど、音をたてて落ちました。ある日、M義の留守中に、彰は地下の音楽室のドラムを2階に運び上げました。そのままだと、とんでもなく大きな音がするので、太鼓の中に毛布を詰め、打面にタオルを貼り、雨戸とカーテンを閉め、ドラキュラ伯爵よろしく、うす暗い部屋でドンドコドコドコとやり始めました。子供部屋の下は、T平の居室になっておりました。突然頭上で始まった大さわぎに、T平は何事かと驚きましたが、事情がわかると別に文句もいいませんでした。